コーヒーさえあれば、何とかなるはず

雑記ブログになります。レビューや批評などを掲載。

日経電子版の新CMが微妙な件について

私は毎朝、BSテレ東「日経モーニングサテライト」と、「日経モーニングプラスFT」を見るのを日課にしている。

そこで日経新聞電子版のCMを毎朝目にするのだが、今年度のCMはハッキリ言って、微妙だ。


日経電子版TVCM「人は、毎日触れるもので、視座を養う。」コンテンツ篇30秒

「なるほどね」について

ちなみに昨年の「なるほどね」シリーズでは、いろんなシチュエーションに対して、主人公が「なるほどね」というセリフを最後につぶやくというCMだったが、何のCMか分かりづらかったし、結局何が「なるほど」なのか、見ていてもほとんど分からなかった。

清原翔のつぶやきに悶々、視聴者を「?」で印象づけた日経電子版:日経クロストレンド

ただ、何が「なるほど」なのかは、その場では分からなくても、ネットでググれば回答が載っていたし、また自分で「なるほど」のなぞ解きをする楽しさもあった。

三国志

一昨年前は、三国志編で、これが一番好きなバージョンのCM。


CM 日本経済新聞電子の版 新社長 ライオン

「獣に社長が務まるかっ」「はい、偏見。ダイバーシティーをご存じないの?」というくだりが特に笑える。三国志のキャラの表情もコミカルでよい。

さらに三国志のキャラは、日経歩数版という携帯アプリがあり、そこでも登場している。

今年のCM

今年のCMは前述したとおりだ。たしかに「なるほどね」に比べると、何のCMか分かりやすいし、日経電子版の特徴が端的に表現されている。ただ、遊び心がない。視聴者としては、まるで、サスペンスを見たときに、「最初に犯人がこの人で、動機がこれで・・・」という筋書きを冒頭で暴露されたような気分になる。別にこれはただのCMでサスペンスではないのだから、といえばそれまでだが、一年間、次のCMを心待ちにしていた私にとっては、肩透かしもいいところである。

・・・というわけで、来年こそは、もっと楽しいCMを期待しています。

 

Written by ユカ@コーヒー

 

 

 

 

村上春樹氏とノーベル賞

村上春樹氏とノーベル賞

村上春樹氏とノーベル賞

 

概要

私はずっと長いこと、氏とノーベル賞について考えてきた。結論から言うと、このままではノーベル賞は取れそうにない。私は熱烈なファンでもないが、アンチではない。むしろノーベル賞を取れるなら取ってもらいたいと思っている。しかし現段階では難しいであろう。

 カズオイシグロ村上春樹の違い

以前、ユーチューブで、カズオイシグロ村上春樹の違いという動画を見た。「イシグロ氏は社会的テーマを扱っているが、村上氏の小説にはそれが見受けられない」という論調だったが、私はそのテーマについて、もう少し自分なりに掘り下げてみることにした。

 イシグロ氏がどんな人物なのかを知るために、氏のノーベル賞受賞式でのコメントが全文掲載してある本を読んだ。一番印象的だったのは、イシグロ氏の影響を受けた音楽に対するエピソードだった。イシグロ氏はトム・ウェイツなどから影響を受けたそうだが、彼の声や歌唱法に強くインスパイアされ、自身の小説にもその影響が反映されているそうである。他にも、ボブ・ディランニール・ヤングなどから影響を受けたそうだが、そこには音楽家に対しての深いリスペクトがあると感じた。

 一方の春樹氏はというと、音楽に対する知識や愛着などはあるのだが、何より感じるのは、それらを深く鑑賞することができ、目利きである「自分自身」である。イシグロ氏の他者に対する敬愛に対し、春樹氏の自己愛、それが一番の違いだと思った。

 

騎士団長殺し」を読んで

社会的テーマ」に関しては、本作で取り組んでいるように見えるが、どうもそのテーマが上滑りしている。そこに書かれている事実の信ぴょう性だけが問題なのではないと思う。作者がそれを取り上げ、読者に何をどう訴えようとしているのか、それが問題なのである。確かに南京大虐殺ホロコーストは重いテーマである。ただそうしたものに対する、「憎しみ」以上のものが伝わってこない。そのテーマを掘り下げた動機があまりにも軽い。作者のルサンチマンのはけ口としてそういったものを利用しているのにすぎないといった印象を拭えなかった。

 彼の小説には、総じて「」の要素がたりないと思う。「自己愛」、それはおおいに感じるが、「人類愛」、「世界への愛」、そして自己や他者に対する愛がたりない(全くないとは言わないが)。そのテーマを克服せずに、表面的にどれだけ社会的テーマを盛りこんだところで、多くの読者を納得させることはできないのではないか。かりに著者が真剣にノーベル賞を目指すなら(目指さなくても)、ぜひ全身全霊をかけて、このテーマに取り組んでほしいところである。

 

春樹氏と日本、そして日本人であることについて

また春樹氏はおそらく、日本人や日本人の国民性を嫌悪している。それは自分の中にある日本人性もそうだし、日本人一般の国民性のこともそうである。それだから最近の春樹氏の小説の中には、意図的に「日本らしいもの」が出てこない。それがリアリティーの欠如を生んでいるように見えるし、一部のアンチの嫌悪感を生む原因だと思う。

 たぶん本人の趣味が高尚なのは、一般的な日本人が好むものに、嫌悪感を感じているためだ。その趣向が、最近の「日本ブーム」と逆行している。

 

だったらどうするべきか

ただ別に私は春樹氏に、日本を好きになってほしい、といっているわけではない。(私だって、100%好きではない。)ただ逆に日本が嫌いな人も、一定数いると思うし、皆、日本には多少なりとも住みにくさ、暮らしにくさを感じているはずだ。その証拠に、日本の幸福度ランキングは、世界でも最下位に近い。

そこで小説家なら、自分がなぜ日本が嫌いか、その理由をもっと掘り下げて、その嫌悪感を共感のレベルまで落とし込むべきではないのか。(もし私が一流の小説家ならばそうするだろう。)

 最近の彼の小説は、あまりにも自分の中で自己完結していて、まったく世相を反映していないし、ずいぶん独りよがりに見える。もっと世の中の人が何を考えているのか、知るべきだと思うし、そこから他人に共感できる要素を探すべきだ。あまり自分だけが、特別な人間で、孤独で、崇高だと思わないほうがいいそれは天才ではなく、単なる凡人の発想にすぎない。

 

もっと日本らしさを小説に盛り込むべき

 そして著者が日本らしさを小説に表現したら、それは自分の小説ではなくなってしまうと感じているとすれば、「あなたの持っている個性はその程度ですか」と問いたい。一流のシェフは、どんな食材も自分の味にしあげるように、一流の小説家なら、どんな設定も自分の小説にできるはずだ。私はそれを期待している。

もし著者がこの意見をスルーするようであれば、ノーベル賞が取れないばかりか、小説家としても、二流、三流に成り下がるだろう。私は本当にそうなってほしくはない。

 

Written by ユカ@コーヒー

 

 

「わたしはダニエル・ブレイク」でイギリス社会の闇を見た

「わたしはダニエル・ブレイク」でイギリス社会の闇を見た

わたしはダニエル・ブレイク

 

「わたしはダニエル・ブレイク」とは

遅まきながら、2016年のイギリス映画、「わたしはダニエル・ブレイク」を見た。ケン・ローチ監督カンヌ国際映画祭パルムドールを獲得した社会派映画である。舞台は通称「ニューカッスル」と呼ばれる、正式名称「ニューカッスル・アポン・タイン」というイギリスでもイングランド北東部の地方工業都市である。ニューカッスルの人たちは、「ジョーディー」と呼ばれる訛りで話すが、「ジョーディー」はイギリスでも最も強い方言の一つである。普段アメリカ英語を聞きなれている人にとっては、またイギリス英語に慣れている人でも、おそらく「同じ英語?」と耳を疑ってしまうほどの、独特のアクセントである。

 あらすじ(ネタばれあり)

主人公のダニエル・ブレイクは、元大工で現在心臓病を患っているという設定だ。心臓病のために働くことができなくなり、役所で失業給付金を受け取る手続きをする場面から始まる。機械的でマニュアル通りに手続きを進めようとする、役所のカウンセラーの対応に対し、もともと短気で気の荒いダニエルはいら立ちを隠せず、反発的な態度を取ってしまう。「心臓に関係のある話をしてくれ」と頼むが、役所のカウンセラーには「その態度では審査に受からない」と言われてしまう。その後もダニエルは、手続きの関係で役所に電話をかけるが、電話口で何時間も待たされたり、パソコンを触ったこともないのに、「オンラインで手続きを進めるように」と言われ、パソコンの扱いに四苦八苦したりするなど、散々振り回されてしまう。そして審査の結果が出るが、「就労可能」とのこと。就職活動をしなくては、手当てが出ないという。

 そんなさなか、就職活動のため、ダニエルは職業安定所を訪れる。そこでケイティーという若い女性とその子供たちと出会う。ケイティーは、道に迷って約束の時間に遅れてしまったために、給付金を受ける資格がなくなるどころか、減額処分になる審査にかけられてしまうという。安定所の人間に抗議するケイティーに、ダニエルも加勢するものの、一緒に安定所を追い出されてしまう。

 そうしてケイティー母子とダニエルの友情が始まる。引っ越したばかりで、暖房設備のないケイティーたちの家の防寒対策や、壊れたトイレの工事をしたり、本棚などを作ったりしてやるダニエル。ダニエルに子供たちもなつき、ケイティー一家にとって、ダニエルは、なくてはならない大切な存在となっていく。

 しかし貧困が次第にケイティーを追い詰めていく。子供たちの食事を優先し、自分の食べる分を後回しにしていたため、ケイティーは、フードバンクでは空腹に耐えきれず、缶詰をその場で開けて食べてしまう。そしてフードバンクで支給されなかった生理用ナプキンが欲しくて、スーパーで万引きしてしまう。スーパーの職員は、ケイティーを見逃すが、ケイティーの貧困さに付け込み、売春の仕事を斡旋しようと、自分の電話番号を書いたメモを渡す。それに気づいたダニエルは、ケイティーの働き始めた売春宿まで押しかけ、ケイティーを説得しようとするが、まとまった金がほしいケイティーは、逆にダニエルを追い返してしまう。

 一方のダニエルは、役所の指示通り、形のうえでの就職活動をしていた。何軒か職場をあたり、履歴書を残してくる。その中でダニエルの経歴に目を留めたある経営者が、ダニエルを採用したいと電話をかけてきた。ダニエルは、支援手続きのために求職活動をしていただけだと告げ、相手を憤慨させてしまう。また役所でダニエルは、求職活動をしたことを報告したが、求職活動の証拠がないと、職員に突っぱねられてしまう。追い詰められたダニエルは、家財道具を売り払ってしまう。再び職業安定所で、求職者手当の申請を続けるよう説得されるが、「尊厳を失ったら終わりだ」と言い残してその場を去る。そしてブチギれたダニエルは、安定所の壁に、「わたしダニエル・ブレイクは…」という書き出しで、役所の文句(役人たちの塩対応や、耳障りな電話の保留音など)をスプレーで落書きしてしまう。それを見ていた群衆は、「よくぞ言ってくれた!」とダニエルに拍手喝さいを送るが、ダニエル自身は警察に連行されてしまう。

 売春宿の一件で、疎遠になっていたケイティー親子とダニエル。しかしある日ケイティーの娘、デイジーがダニエルの家を訪ね、「あなたを助けたい」と言って、無視を決め込むダニエルにもう一度会ってくれるよう説得する。そうしてついにダニエルは、ケイティーの付き添いで、不服申し立てをする手続きに行く。「役所の対応には皆怒っている。きっと私たちは勝てる」と言われるが、トイレに行ったダニエルは心臓発作で倒れてしまう。ケイティーたちがダニエルを発見したときは、ダニエルはすでに手遅れで、帰らぬ人となってしまう。

最後のシーンはダニエルの葬式。ダニエルの葬儀の行われた9時台は、主に貧乏人の葬儀の時間とのこと。葬儀はしめやかに執り行われ、最後にケイティーは、ダニエルが持っていたという抗議の文章を読み上げる。「わたしはダニエル・ブレイク」で始まる抗議文には、お金はなくても、最後まで決して人としての尊厳を失わなかった、ダニエルの力強いメッセージが込められていた。

 

 総評

人とのつながり

私がこの映画で印象に残った点は、まずひとつ目は、「人同志のつながり」である。あえて「つながり」という言葉を選んだのは、東日本大震災以来、「絆」という言葉が多用され、「絆」という言葉には、個人的に鬱陶しさを感じるためである。東日本大震災では、「人が譲り合い、助け合う精神」がクローズアップされていたが、それは何も日本だけの現象ではなくて、どこにでもあるものなのだと思った。この映画でも、ダニエルとケイティーの友情をはじめ、中国人からスニーカーを仕入れて商売をしようとしている隣人が、ダニエルにパソコンの使い方を指南してくれるなど、貧しい者同士でも、何とか互いに助け合って生きているというところが印象的だった。

むしろ日本では、たとえばダニエルやケイティーのように、その辺で出会った知らない者同士、特に世代も性別も違う者同士は、通常交流を持たないと思う。異質なもの同士が、お互い差別意識を持たずに協調しあう関係というのは、同質のもの同士が差別意識で他を排除する関係とは違ったものであり、ずいぶん風通しが良いものに思われた。

人間の尊厳とは

もう一つは、ダニエルが繰り返し口にしていた、「人間の尊厳」とはいったい何か、ということである。「尊厳」を辞書で引くと、「尊くおごそかで侵しがたい・こと(さま)」とあった。ダニエルの主張とは、いくら貧乏であっても、人から、そして特に社会から、一人の人として尊重されるべきだということだと思う。そして自らを恥じることのない生き方をしている限り、自分で自分を尊重することができ、自分を誇りに思える生き方を貫いていると言えると思う。イギリス人は、一般的にプライドが高いと言われているが、プライドには、尊厳という意味も含まれていると思う。だからたとえイギリス社会に見放されそうになっても、ダニエルは「イギリス人であること」を、最後まで貫いたと言えるのではないか。

 逆に言うと、最後にダニエルに残ったものは、「尊厳だけ」であるという言い方もできると思う。「尊厳」にこだわらなければ、役所の人間に要領よく調子だけでも合わせておけば、もっと早くそして簡単に給付が受けられたのではないかとも思ってしまう。しかしもしそうだとしたら、仮に彼がずるいことをして、人から金をちょろまかすような人間だったら、映画を見ている私たちは、これほどまで心を打たれなかったのではないか。

 ただ私も含め、現代の日本人で、これほどまで「尊厳」にこだわる人間は少ないと思う。普段人を非難してばかりで、自分を省みることをせず、「個人の権利」を都合よく主張する人は多いが、それは「尊厳」とはまた違う気がする。「尊厳」には、自らの行動を律して、自分や人に恥じない生き方をすることも含まれると思う。それは「開き直り」とは全然違う。私にはダニエルのような率直な生き方はとてもできないし、ダニエルのような悲劇的な末路を迎えたいとは決して思わないが、彼の生き様は私たちが無くしてしまったものを具現化していると思う。だからこれほどまでにこの映画は感動的なのではないだろうか。

貧困・格差の問題

そして最後に、イギリスのような先進国と言われている国にも、貧困層や貧困問題というのは、一定数存在するということである。ダニエルたちは、いまだに階級制度の名残があるイギリスでは、最下層のプレカリアートという部類に属している。プレカリアートの人口は、イギリス社会の15%を占める。文化的資産、社会的資産でも最低の水準にある、収入や仕事も不安定で、社会的に最も困窮しているグループである。主な職種は、清掃員、トラック運転手、介護職員、管理人、小売店のレジ係など。その中にはダニエルの職業である大工も含まれる。

イギリスほどあからさまではないとはいえ、日本にも確実に格差は広がりつつある。お金を持っている人のなかには「貧乏なのは努力がたりない」とか、「自己責任」で片づける人がいるが、本当にそれだけなのだろうか? ダニエルやケイティーだって、精一杯努力していると思うし、イギリスの格差社会においては、もともとの家柄で、その後の人生が決まってしまうという側面もある。それを安易に「自己責任」での一言で片づけてしまってよいのだろうか? 

私はそうは思わない。人生には何が起こるかわからない。病気で働けなくなるかもしれないし、地震や災害で家や家族を失ってしまう可能性だってある。私だってあなただって、いつ何時ダニエルやケイティーのような境遇に陥ってしまうかわからないのだ。それは「自己責任」で片づける人だって同じだと思う。いつかは自分の勤めている、または運営している会社が倒産するかもしれないし、大切な人を失うかもしれない。「明日は我が身」なのである。自分だけとは思わず、想像力を働かせて、相手の身になってみる、自分のことに置き換えてみる、という姿勢が大事だと思う。

 

Written by ユカ@コーヒー

「見るものがない!!」ここ数年、国内外のドラマを取り巻く事情に怒っています

「見るものがない!!」ここ数年、国内外のドラマを取り巻く事情に怒っています

ドラマ事情

 

※あらかじめ断っておきますが、今日は文句満載の内容になります。不快に思われた方はすみません。

 

特にここ数年、日本のドラマは面白くない

今に私だけが言い出したことではないが、特にここ20年来、日本のドラマの質は劣化する一方。キャスティングは人気重視、顔面重視で、演技が下手な役者ばかりしか出てこない。脚本、演出もわざとらしさ満載、リアリティーのかけらもない、どれも似たような展開で、内容に深みがない…ハッキリ言って、「視聴者なめてんのか?!」としか言いようない。

 

 演技がわざとらしいのは、俳優のせい?

役者の演技がわざとらしいのは、役者の責任ではなくて、演出家とかプロデューサーなどが、役者にわざとらしい演出することを要求しているためと勝手に思っていた。(ごく一部だが、作品によっては、わざとらしくないものもあるため)しかし、調べてみたら、そういう理由ばかりではないらしい。

 他の人のブログにも書いてあるが、まずキャスティングは、大手プロダクションとの忖度で決まるらしい。その際に重要視されるのは、役者の人気があるかどうかで、演技力は二の次、三の次…。どおりで似たような容姿、雰囲気の女優、俳優ばかりしか出てこないわけだ。おかげで最近の俳優は、顔も名前もいちいち覚えられない!!(それは私の記憶力の悪さと、覚える気のなさの問題だという気もするが)。

 キャラ設定、演出、ストーリーも低クオリティ

そしてキャラクターと演出とストーリー展開のありえなさ。まずキャラクターに関しては、「現実にありえない」人間しか出てこない。自分の意志を貫くあまり、組織に歯向かい、空気を読むどころか、ぶち壊しまくる主人公。嫌味たらしさ満載の悪役。決まって犯人に長たらしく説教する刑事。ありえない動機で人を殺す犯人…。

 門切り型の破天荒なキャラさえ出しとけばいいってもんじゃないと思う。たとえば「とりあえず米倉涼子さえ出しとけば、視聴率が稼げる!」的な発想は、安易だと思う。(あの人のことは決して嫌いではないし、見ていてスカっとする気持ちもわからないでもない。ただ彼女が出てくる、ワンパターンな話ばかり量産しすぎだという話)。

 やりすぎを通り越して不快

最近、某ドラマで「あなたの今日のパンティの色は?」などと容疑者にいきなりドヤ顔で聞くという、傍若無人で上から目線の女刑事が出てくるドラマを偶然見た。奇をてらえばいいというものじゃないし、リアリティーのかけらもないうえ、それを見て爽快だという人よりは、不快な思いをした人も多いのではないかと思った。

あの手の、奇をてらった「ドヤ顔+決め台詞」は最近のドラマの定番だが、視聴者としてはもうお腹いっぱいだ。

 

 「障がい者」、「重病患者」が出てこない!

さらに日本のドラマには、障がい者「重病患者」がほとんど出てこないと思う。たとえば、海外ドラマの場合、統合失調症という言葉が頻出するし、「発達障がい」と思われる登場人物が結構な割合で出てきたりする。米国の人気ドラママクガイバーで、組織のリーダー役を演じるメレディスイートンという女優は小人症だし、またCSのドラマ「レイ・ドノヴァン」の主人公レイの兄テリーは、パーキンソン病という設定だ。

 一方、日本のドラマには、健常者と思われる人ばかりしか出てこない。(米倉涼子の役の、あの高飛車なドクターや弁護士は、広義の意味での発達障がい者なのかもしれないが)。そして人が死ぬ場合も、なぜか圧倒的に白血病が多い。たとえば「多系統萎縮症」などで死ぬ人は見たことがない。

 今の世の中、こんなにダイバーシティーが叫ばれているうえ、発達障がいなどで悩んでいる人も山ほどいるし、日本に住む外国人だって増えている。それなのに、いまだに画一的でステレオタイプな日本人ばかり(というか、むしろ実際に現実にはいなさそうな人ばかりだが)しか出てこないというのが、リアリティーのなさの一因なのではないか。

 そりゃあ、デープ・スペクターもお怒りになるだろう…。

www.dailyshincho.jp

 

 

 海外ドラマもワンパターン

日本のドラマの文句はもういいとしよう。嫌いなら別に見なければいいだけの話だし。私が今回一番怒っているのは、「私が見たいドラマがない!!」という話である。私はどちらかというと海外ドラマファンだし、海外ドラマの内容そのものに怒っているわけではない。ただ「最近日本で放映されている海外ドラマ」がワンパターンだという理由に憤っている。

 「NCIS」垂れ流しの件

たとえば、海外ドラマファンの間で、比較的人気な「NCIS」だが、私の家で契約している「スーパードラマTV」でも、「FOX」でも、ずっと「NCIS」ばかり放映されている印象がある。本家の「NCIS」をはじめ、「NCIS:LA」「NCIS:ニューオリンズ…。中でも「NCIS」と「LA」に関しては、二つの局をまたいで、それも何度か同じ話が放映されている。

 

 サスペンスか、SFか、アクションか

「スーパードラマTV」でも、「FOX」でも言えるのは、最近似たようなドラマばかり放映されていることである。似たようなサスペンス、アクション、SF、はたまたSF要素のあるサスペンスか、アクション要素のあるサスペンスか。ちなみに私の好きなジャンルは、「コメディー」、「恋愛」、「ヒューマンドラマ」なのだが、悲しいことに、それらのドラマは、最近ではほとんど放映されない。放映されないうえに、万が一放映されることがあっても、打ち切られることも多い。(たとえばスーパードラマTVで放映されていた「チャーリーシーンのハーパーボーイズ(原題「Two and a half men」)や「ラリーのミッドライフクライシス」(原題「Curb your enthusiasm」)、Lala TVで放映されていた「ユナイテッド・ステイツ・オブ・タラ」など。)

 

 大人向けの恋愛ドラマがない

ここまで読んで気づいた人もいるかもしれないが、要は現在CSで放映されているのは、男性向きのドラマばかりだということである。たまに恋愛ものも放映されるが、(「The OC」、「ゴシップガール」、「バンパイア・ダイアリーズ」など)そのほとんどが、ティーンエージャー向けなのである。近年国内で放送された、大人の鑑賞にたえられそうな恋愛ドラマは、私が知る限りだと、「アフェア~情事の行方~」くらいしかない。広義の意味では、FOXで放送されている医療ドラマ「レジデント」や、音楽系ドラマの「エンパイア」なども恋愛もののくくりに入るだろうか。

 そもそも女性は海外ドラマを見ない?

私はもともと女性の友人が少ないうえ、その少ない友人たちともテレビの話をほとんどしないため、詳しいことはわからないのだが、女性はそもそも海外ドラマを見ないのだろうか?たしかに以前の職場などにいた女子の知り合いは、「海外ものは見ない」と言っていたし、知り合いで海外ドラマを見るという女性には会ったことがない。「需要がないものは諦めろ」ということなのだろうか。

 

 だったら何を見ればいいのか?

仕方がないので、私の場合、もう「スーパードラマTV」、「FOX」にはほとんど見切りをつけている。(唯一見ているのは、先述の「スーパードラマTV」の「レイ・ドノヴァン」と「FOX」の「レジデント」くらいである)。そして代わりに「アマゾンプライム」で、過去見逃した作品などを、気が向いたら見ることにしている。私が現在見ているのは、スーパードラマTVなどで過去に放映されていて見逃した名作「ソプラノズ」や、先の「ハーパーボーイズ」(これはアマゾンプライムでほぼ全配信されている)、「Dr.House」(原題「House」)などである。また見る時間が取れなくて解約してしまったが、「ネットフリックス」のオリジナルドラマシリーズの、「ユー~きみがすべて~」というロマンティックサスペンスや、リアリティー番組「Konmari~人生がときめく片づけの魔法~」なども一時期見ていた。

 

 本当に見るべきドラマはそれほど多くなくてよい

「こんなに文句を言っておいて、こんな結論に到達するとは何事だ!」と思われるのを承知でいうと、結局、人生で貴重な時間を削って見るべき良質な番組というのはほとんどないし、時間が限られている現代人は、それほど多くのドラマを見る必要はないということ。特に海外のドラマシリーズは、いったん見始めてしまったら、見終わるまでに相当時間がかかってしまう。だから結局のところ、見るべきドラマはそれほど多くなくてもよいし、逆に見るべきドラマが多すぎても、全部見ることはできないだろう。(私も先に挙げたドラマのほとんどを最後まで見ることができていない)。ただ、大人の鑑賞に堪えうる、良質なドラマを求めている一部の女性の視聴者も、世の中にはいるということを言いたかった。

 

Written by ユカ@コーヒー

「なぜ人は困った考えや行動にとらわれるのか?」を読んだ

脇本竜太郎著「なぜ人は困った考えや行動にとらわれるのか?」

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  「存在脅威管理理論」とは?

 「自分自身が死ぬということについて考えると、どのような気持ちになりますか?」

  この問いに対しての回答として挙げられるのが、社会心理学における理論の一つ、「存在脅威管理理論」である!

存在脅威管理理論では、「ある種の死の恐怖」を和らげてくれるような心的防衛メカニズムが人間に備わっていると考える。

 しかしこの防衛メカニズムによって、人間は不合理な判断や行動をしてしまう!

存在論的恐怖とは?

存在論的恐怖とは、「自分の死は避けることができず、それがいつ訪れるかわからないという認識から生まれる恐怖」のこと。

これは「死の危険に直面する恐怖」とはまた異なったものである。

本の概要

この本では、存在恐怖管理理論の中核をなす3つの重要なトピック、「自己についての幻想」「よそ者を排斥する理由」「関係性を求める理由」と、筆者が選んだトピックである、「格差と平等の幻想」「母性愛神話」「伝統という幻想」について、存在恐怖理論研究をはじめとした、様々なエビデンスに基づく知見から論じている。

 

トピックの主題には、次のようなものがある。

 

自尊感情が高いほど、ポジティブな考えをすればするほど、精神的に安定するという説は間違いである?

 ・なぜ人は内集団をひいきし、外集団を見下すのか?

・人との関係性を求めることで、存在論的恐怖が緩和される?

・公正ではない世界で、格差や貧困などを是正する必要性

・母性愛神話を信仰する危険性について

・「江戸しぐさ」に代表される伝統的価値観をうのみにしてはいけない?

ゆとり教育批判は的を射ていない?

 

また存在論的恐怖を意識すると人間は、次のような行動をする。

・自分の支持する文化的世界観、価値観を尊重し、それにそぐわない人を批判する

・従来のステレオタイプ的価値観(差別・偏見)を支持し正当化する

・異性が魅力的に見える

・結婚相手を妥協してもよいと考える

・不公正な出来事に遭遇したときの防衛反応(被害者非難など)が強くなる

など

  

また存在論的恐怖による良くない影響に対しては、次のような方法で対処できる。

 

存在論的恐怖についての知識を持ち、良くない影響による状況を避けたり、意識して望ましい行動に変える

・外集団に対する差別・偏見などの否定的反応を、人との関係性を求める反応に置き換える

・寛容さについて意識する

・「自分はアイツらと違う」という発想を変える

 

  感想

様々なエビデンスを用いて、冷静かつ理論的に著者の意見が述べられている。

ただし言いたいことはごくシンプルなわりに、言葉遣いや表現が堅苦しいため、難解で敷居が高く、読む人を選ぶ印象。

また著者の言いたいことを端的にまとめると、こういうことだと思う。

 

 ・自分に対する自信はほどほどでよい。それよりも人のためになることをしよう。

・あからさまな差別はやめ、多様性を意識しよう

・身近な人との関係性を重要視するあまりに、身近でない人を非人間扱いしないようにしよう。

・自分よりも不幸な人たち、恵まれない人たちにも意識を向け、安易な格差推進論や自己責任論を助長しないようにしよう。

・母性愛神話や伝統と言った、世の中で広く受け入れられている価値観についても、それがもたらす負の側面について十分に吟味し、安易にうのみにしないようにしよう。

・外国の人や自分と意見が異なる人たちに対しても、なるべく共感できる要素を見つけ、寛容な心を持って、差別意識を持たないようにしよう。

・こうした心がけを人々が実行しやすいように、社会の基盤から整えていこう

 

これらの意見には、おおいに賛成するし、またこのような意識が社会に根付いていったら、この世の中も少しは今よりマシになる気がする。

 

Written by ユカ@コーヒー

映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」レビュー(ネタばれあり)

絶望の先にあるもの

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映画概要

マット・デイモンプロデュース、ケナス・ローガン監督、ケイシー・アフレック主演。

アカデミー賞ゴールデングローブ賞などをはじめ、2016年から2017年にわたり数々の賞を総なめした話題作。

このところ自分の中でヒットがなかったが、これは久々に当たりのミニシアター系映画だ。

ちなみにこの話の舞台の「マンチェスター・バイ・ザ・シー」はアメリカのマサチューセッツ州にある小規模都市で、イギリスのマンチェスターとは関係がないらしい。

あらすじ

主人公、リー・チャンドラーは、ボストンで家の配管工事などを行う便利屋として生計を立てていた。

ある日兄のジョーが心臓発作で病院に運ばれ、そのまま亡くなってしまう。

ジョーには一人息子のパトリックがおり、その後見人に選ばれたのがリーだった。

その出来事を期に、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ったジョーは、パトリックと同居を始めるが・・・。

 人生を変えてしまう出来事

以前のリーは交友関係も広く社交的で明るい性格、子沢山の一家の主だった。

妻とも「もう一人子供を作ろうか」などと話していた矢先、リーの不始末で、家と子供たちを火事で亡くしてしまう。

一夜にして持っていた大切なものすべてを亡くしてしまったリー。

それも全部自分の責任ということで、抱えきれないほどの悲しみや怒り、絶望を向ける矛先がない。

それゆえ、それ以降のリーは、口数が少なく、短気で喧嘩早い性格に変わってしまう。

リーの人生の時間は、その時点で止まってしまい、その後の人生も立ち行かなくなってしまったようだ。

出発、そして再生

しかし兄の死をきっかけに、マンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ったリーは、甥のパトリックと同居を始める。

パトリックは高校生で、バンドを組んでおり、彼女が二人もいるという絵に描いたようなリア充青年。

そんなパトリックとリーは、最初のうちはぶつかり合ってばかりいたが、話が進むにつれ、次第に心の交流が芽生え、物語の最後には打ち解け合うようになる。

 リーが最初にいたボストンも、マンチェスター・バイ・ザ・シーも、季節は冬で、雪がたくさん積もっており、まるでリーの心中の様子を表しているかのようだったが、

ストーリーの最後は春であり、雪解けとともに、リーの心の傷が少しずつ癒えていく様子が丁寧な描写で描かれている。

 

総評

決して派手な映画ではないし、最後もめちゃめちゃハッピーエンドだというわけではなく、淡々とした感じで終わる。

しかし絶望を抱えたままでも、何の希望もなくても、生きているということ自体が素晴らしいことなのだとしみじみ思えた。

ミニシアター系の映画にありがちな意味不明な描写もないし、ストーリーもこぎれいにまとまっている。

しかし決して話の展開が読めてしまうとか、ありきたりな王道ものというわけではない。

わかりやすさやポップさはなくとも、じんわりと心にしみる良作を探しているという人には、本当におすすめの一作だ。

 


アカデミー主演男優賞受賞『マンチェスター・バイ・ザ・シー』予告編

Written by ユカ@コーヒー

 

映画「キンキーブーツ」レビュー

おすぎも褒めていた、知られざる名作

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二人の出会いから始まる物語

実際見た感想は、しみじみいい映画だと思った。

まず、主人公チャーリー役のジョエル・エドガートンが、とても役どころにあっている。

いかにも靴屋って感じだ。

そうしてもうひとりは、女装趣味?の黒人男性で自称ドラッグクイーンのローラ。

その二人が偶然出会うところから、物語は始まる。

 

はみ出し者の二人が共感しあい・・・

先代から続いた靴屋を引き継ぐことになったが、まるで靴屋に向いていないと自覚するチャーリー。

そして子供の頃から女の格好が好きだったのに、父親の意向で、ボクシングを習わされていたローラ。

二人はどうもまわりの環境になじめない「はみ出し者」として、共感しあい、友好関係を結ぶことに。

そして靴の売れ行きが伸びず、会社の経営路線の変更を迫られ、そこで思いついたのが、体重が重いローラの足を支える特別なブーツ—―まさに`キンキー´(風変わりな、変態の意)ブーツだった…。

 

映画の見どころ

見どころは、チャーリーとローラの、世間の逆風に煽られながらも、それでもめげずに自分のやりたいことを貫こうとする、健気さと勇敢さ。

その姿にはどんなにつらくても前向きに生きようと思える勇気を与えてくれる。
そして全編に渡るテーマになっているのは、ローラを通じて「男/女らしさとは何か?」を問う、セクシャリティの問題だ。

子供の頃から、いわゆるどっちつかずだった彼(女)の提言するところの、いわゆる「女が男に求めるもの」とは?

そしてラストにチャーリーがローラに送った、男女の性を超越して、ローラを褒めたたえた名言は圧巻ものだ。

 

マイノリティーの人たちにおススメ

どこかまわりの環境に順応できず違和感を感じているチャーリーやローラのような人、そして「男らしさ、女らしさとは何か?」といった、セクシャリティの問題に疑問や興味を持っている人にはぜひ見てほしい一編。

 

Written by ユカ@コーヒー