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「わたしはダニエル・ブレイク」でイギリス社会の闇を見た

「わたしはダニエル・ブレイク」でイギリス社会の闇を見た

わたしはダニエル・ブレイク

 

「わたしはダニエル・ブレイク」とは

遅まきながら、2016年のイギリス映画、「わたしはダニエル・ブレイク」を見た。ケン・ローチ監督カンヌ国際映画祭パルムドールを獲得した社会派映画である。舞台は通称「ニューカッスル」と呼ばれる、正式名称「ニューカッスル・アポン・タイン」というイギリスでもイングランド北東部の地方工業都市である。ニューカッスルの人たちは、「ジョーディー」と呼ばれる訛りで話すが、「ジョーディー」はイギリスでも最も強い方言の一つである。普段アメリカ英語を聞きなれている人にとっては、またイギリス英語に慣れている人でも、おそらく「同じ英語?」と耳を疑ってしまうほどの、独特のアクセントである。

 あらすじ(ネタばれあり)

主人公のダニエル・ブレイクは、元大工で現在心臓病を患っているという設定だ。心臓病のために働くことができなくなり、役所で失業給付金を受け取る手続きをする場面から始まる。機械的でマニュアル通りに手続きを進めようとする、役所のカウンセラーの対応に対し、もともと短気で気の荒いダニエルはいら立ちを隠せず、反発的な態度を取ってしまう。「心臓に関係のある話をしてくれ」と頼むが、役所のカウンセラーには「その態度では審査に受からない」と言われてしまう。その後もダニエルは、手続きの関係で役所に電話をかけるが、電話口で何時間も待たされたり、パソコンを触ったこともないのに、「オンラインで手続きを進めるように」と言われ、パソコンの扱いに四苦八苦したりするなど、散々振り回されてしまう。そして審査の結果が出るが、「就労可能」とのこと。就職活動をしなくては、手当てが出ないという。

 そんなさなか、就職活動のため、ダニエルは職業安定所を訪れる。そこでケイティーという若い女性とその子供たちと出会う。ケイティーは、道に迷って約束の時間に遅れてしまったために、給付金を受ける資格がなくなるどころか、減額処分になる審査にかけられてしまうという。安定所の人間に抗議するケイティーに、ダニエルも加勢するものの、一緒に安定所を追い出されてしまう。

 そうしてケイティー母子とダニエルの友情が始まる。引っ越したばかりで、暖房設備のないケイティーたちの家の防寒対策や、壊れたトイレの工事をしたり、本棚などを作ったりしてやるダニエル。ダニエルに子供たちもなつき、ケイティー一家にとって、ダニエルは、なくてはならない大切な存在となっていく。

 しかし貧困が次第にケイティーを追い詰めていく。子供たちの食事を優先し、自分の食べる分を後回しにしていたため、ケイティーは、フードバンクでは空腹に耐えきれず、缶詰をその場で開けて食べてしまう。そしてフードバンクで支給されなかった生理用ナプキンが欲しくて、スーパーで万引きしてしまう。スーパーの職員は、ケイティーを見逃すが、ケイティーの貧困さに付け込み、売春の仕事を斡旋しようと、自分の電話番号を書いたメモを渡す。それに気づいたダニエルは、ケイティーの働き始めた売春宿まで押しかけ、ケイティーを説得しようとするが、まとまった金がほしいケイティーは、逆にダニエルを追い返してしまう。

 一方のダニエルは、役所の指示通り、形のうえでの就職活動をしていた。何軒か職場をあたり、履歴書を残してくる。その中でダニエルの経歴に目を留めたある経営者が、ダニエルを採用したいと電話をかけてきた。ダニエルは、支援手続きのために求職活動をしていただけだと告げ、相手を憤慨させてしまう。また役所でダニエルは、求職活動をしたことを報告したが、求職活動の証拠がないと、職員に突っぱねられてしまう。追い詰められたダニエルは、家財道具を売り払ってしまう。再び職業安定所で、求職者手当の申請を続けるよう説得されるが、「尊厳を失ったら終わりだ」と言い残してその場を去る。そしてブチギれたダニエルは、安定所の壁に、「わたしダニエル・ブレイクは…」という書き出しで、役所の文句(役人たちの塩対応や、耳障りな電話の保留音など)をスプレーで落書きしてしまう。それを見ていた群衆は、「よくぞ言ってくれた!」とダニエルに拍手喝さいを送るが、ダニエル自身は警察に連行されてしまう。

 売春宿の一件で、疎遠になっていたケイティー親子とダニエル。しかしある日ケイティーの娘、デイジーがダニエルの家を訪ね、「あなたを助けたい」と言って、無視を決め込むダニエルにもう一度会ってくれるよう説得する。そうしてついにダニエルは、ケイティーの付き添いで、不服申し立てをする手続きに行く。「役所の対応には皆怒っている。きっと私たちは勝てる」と言われるが、トイレに行ったダニエルは心臓発作で倒れてしまう。ケイティーたちがダニエルを発見したときは、ダニエルはすでに手遅れで、帰らぬ人となってしまう。

最後のシーンはダニエルの葬式。ダニエルの葬儀の行われた9時台は、主に貧乏人の葬儀の時間とのこと。葬儀はしめやかに執り行われ、最後にケイティーは、ダニエルが持っていたという抗議の文章を読み上げる。「わたしはダニエル・ブレイク」で始まる抗議文には、お金はなくても、最後まで決して人としての尊厳を失わなかった、ダニエルの力強いメッセージが込められていた。

 

 総評

人とのつながり

私がこの映画で印象に残った点は、まずひとつ目は、「人同志のつながり」である。あえて「つながり」という言葉を選んだのは、東日本大震災以来、「絆」という言葉が多用され、「絆」という言葉には、個人的に鬱陶しさを感じるためである。東日本大震災では、「人が譲り合い、助け合う精神」がクローズアップされていたが、それは何も日本だけの現象ではなくて、どこにでもあるものなのだと思った。この映画でも、ダニエルとケイティーの友情をはじめ、中国人からスニーカーを仕入れて商売をしようとしている隣人が、ダニエルにパソコンの使い方を指南してくれるなど、貧しい者同士でも、何とか互いに助け合って生きているというところが印象的だった。

むしろ日本では、たとえばダニエルやケイティーのように、その辺で出会った知らない者同士、特に世代も性別も違う者同士は、通常交流を持たないと思う。異質なもの同士が、お互い差別意識を持たずに協調しあう関係というのは、同質のもの同士が差別意識で他を排除する関係とは違ったものであり、ずいぶん風通しが良いものに思われた。

人間の尊厳とは

もう一つは、ダニエルが繰り返し口にしていた、「人間の尊厳」とはいったい何か、ということである。「尊厳」を辞書で引くと、「尊くおごそかで侵しがたい・こと(さま)」とあった。ダニエルの主張とは、いくら貧乏であっても、人から、そして特に社会から、一人の人として尊重されるべきだということだと思う。そして自らを恥じることのない生き方をしている限り、自分で自分を尊重することができ、自分を誇りに思える生き方を貫いていると言えると思う。イギリス人は、一般的にプライドが高いと言われているが、プライドには、尊厳という意味も含まれていると思う。だからたとえイギリス社会に見放されそうになっても、ダニエルは「イギリス人であること」を、最後まで貫いたと言えるのではないか。

 逆に言うと、最後にダニエルに残ったものは、「尊厳だけ」であるという言い方もできると思う。「尊厳」にこだわらなければ、役所の人間に要領よく調子だけでも合わせておけば、もっと早くそして簡単に給付が受けられたのではないかとも思ってしまう。しかしもしそうだとしたら、仮に彼がずるいことをして、人から金をちょろまかすような人間だったら、映画を見ている私たちは、これほどまで心を打たれなかったのではないか。

 ただ私も含め、現代の日本人で、これほどまで「尊厳」にこだわる人間は少ないと思う。普段人を非難してばかりで、自分を省みることをせず、「個人の権利」を都合よく主張する人は多いが、それは「尊厳」とはまた違う気がする。「尊厳」には、自らの行動を律して、自分や人に恥じない生き方をすることも含まれると思う。それは「開き直り」とは全然違う。私にはダニエルのような率直な生き方はとてもできないし、ダニエルのような悲劇的な末路を迎えたいとは決して思わないが、彼の生き様は私たちが無くしてしまったものを具現化していると思う。だからこれほどまでにこの映画は感動的なのではないだろうか。

貧困・格差の問題

そして最後に、イギリスのような先進国と言われている国にも、貧困層や貧困問題というのは、一定数存在するということである。ダニエルたちは、いまだに階級制度の名残があるイギリスでは、最下層のプレカリアートという部類に属している。プレカリアートの人口は、イギリス社会の15%を占める。文化的資産、社会的資産でも最低の水準にある、収入や仕事も不安定で、社会的に最も困窮しているグループである。主な職種は、清掃員、トラック運転手、介護職員、管理人、小売店のレジ係など。その中にはダニエルの職業である大工も含まれる。

イギリスほどあからさまではないとはいえ、日本にも確実に格差は広がりつつある。お金を持っている人のなかには「貧乏なのは努力がたりない」とか、「自己責任」で片づける人がいるが、本当にそれだけなのだろうか? ダニエルやケイティーだって、精一杯努力していると思うし、イギリスの格差社会においては、もともとの家柄で、その後の人生が決まってしまうという側面もある。それを安易に「自己責任」での一言で片づけてしまってよいのだろうか? 

私はそうは思わない。人生には何が起こるかわからない。病気で働けなくなるかもしれないし、地震や災害で家や家族を失ってしまう可能性だってある。私だってあなただって、いつ何時ダニエルやケイティーのような境遇に陥ってしまうかわからないのだ。それは「自己責任」で片づける人だって同じだと思う。いつかは自分の勤めている、または運営している会社が倒産するかもしれないし、大切な人を失うかもしれない。「明日は我が身」なのである。自分だけとは思わず、想像力を働かせて、相手の身になってみる、自分のことに置き換えてみる、という姿勢が大事だと思う。

 

Written by ユカ@コーヒー