コーヒーさえあれば、何とかなるはず

雑記ブログになります。レビューや批評などを掲載。

「日本人の勝算」から考える、日本経済の今後の課題とは?

デービッド・アトキンソン著「日本人の勝算」

  • デービッド・アトキンソン著「日本人の勝算」
    •  著者デービッド・アトキンソン氏とは
    • 人口減少×高齢化×資本主義
    • デフレリスクの要因
    •  量的緩和政策が効かなくなる?!
    • 「高付加価値・高所得」資本主義への転換
    • 日本の若者が負担することになるもの
    • Low road capitalismからHigh road capitalism へ
    •  具体的な経済政策について
      •  輸出を増加させるべし
      • 大企業を増やすべし
      • 最低賃金を引き上げよ
      • 人材育成トレーニングを「強制」せよ
    • 総評
      • 「文化を守れ」と言うだけでは、結果何も守れない
      • 人・商品のブランディングで価値を高めよ
      • 褒めることで労働者の意欲を高めよ

 著者デービッド・アトキンソン氏とは

 1965年イギリス生まれ。オックスフォード大学で「日本学」を専攻。現小西美術品工藝社の社長。日本に30年近く住んでいて、ゴールドマン・サックス社などにいた経歴から、要は日本の内情を知りつくしている(本書もすべて日本語で書かれている。)経済のプロといったところだろうか。

 

人口減少×高齢化×資本主義

 本書「日本人の勝算」では、日本経済が現在パラダイムシフト(思考の枠組みの転換期)を迎えていて、今のままの状態を続けると、この先悪化することはあっても、決して上向くことはないという警鐘を鳴らしている。

 これから先、日本は人口の減少によって、社会負担(年金など)が増える一方、人口一人当たりのGDPが減少していくのは、経済に詳しくない人でもわかると思う。それに加え、これからの日本経済は、デフレ圧力によってさらに圧迫されていく。

 

デフレリスクの要因

 人口の減少、少子高齢化でモノが売れなくなる。高齢化で、モノの消費より、生産性の低い、介護職などのサービスの需要が増える。需要は減るのに、供給は減らないため、経営者はモノの価格を下げて、他の企業との差別化を図ろうとする。価格下落のしわ寄せは、労働者にくる。労働者の賃金を下げることで、企業は利益をあげ、内部留保に走る。最低賃金の引き上げがなされず、安い外国人労働者を増やすことにより、労働分配率が低下し、さらにデフレは加速する。デフレ圧力

 量的緩和政策が効かなくなる?!

2015年までのデフレは「金融政策の失敗」と位置付けられるが、今後は違う。というのも、最近の経済学によると、人口の増減とインフレ率は相関関係があり、人口の減少にたいしては量的緩和政策の効果が効かなくなってしまうため。

 量的緩和の効果

量的緩和の効果は、「通貨量×通貨の取引流通速度=物価×総生産」という式で表される。

  この式で1000人が年に5回、1個のモノを買うと仮定する。供給量は1000×5で5000となるので、通貨量を1人あたり1とすると、価格は1となる。

 しかし1000人が500人に減ってしまうと、企業の売りたい供給量は変わらず5000なのに、潜在需要は2500となってしまい、この式が成り立たなくなる。

この場合、買う回数が1人につき10回まで上がらない限り、式の均衡は保てない。したがって、通貨を増やしても(量的緩和政策を講じても)、商品の価格は上がらない

 

もっと分かりやすい量的緩和政策の効果が薄れる仕組み

量的緩和とは、日本銀行が銀行から債権を買い、銀行にお金を供給する政策。預金のあふれた銀行は、その分消費者に貸す能力が上がる。これにより、お金が市場に流通するという仕組み。

 しかし人口が減少し、高齢化が加速すると、住宅取得資金など借入の需要も減ってしまう。よって通貨を増やしても消費は増えず、量的緩和の効果が薄れてしまう。

 

「高付加価値・高所得」資本主義への転換

経済成長を「人口増加要因」「生産性向上要因」にわけて考えると、これまでの世界の成長率2.74%のうち、「人口増加要因」は1.32%、「生産性向上要因」が1.42%だった。今後の50年は、「人口増加要因」が0.3%まで低下すると言われているため、従来の「生産性向上要因」を維持したとしても、世界の経済成長率は、2.1%まで低下する。よって今後は、「生産性向上要因」の重要性がよりウエイトを占める

 アメリカの成長率の2.38%はEUの成長率(1.64%)を上回っている。これは生産性でアメリカがEUよりたった0.02%上回っているだけなのに対し、人口増加率で0.72%分もEUを上回っていたためである。よってアメリカの成長率は、よく言われる企業文化や社会風土などによる理由より、「人口増加要因」に大きく起因していることが分かる。

また人口増加の著しいアメリカ経済モデルを、人口減少が加速していく日本経済の参考にするには無理がある。 

人口増加要因(%)

生産性向上要因(%)

経済成長率(%)

世界

1.32

1.42

2.74

アメリ

0.98

1.40

2.38

EU

0.26

1.38

1.64

日本

0.11

0.77

0.88

 

日本の若者が負担することになるもの

現在の日本のGDPは世界第三位だが、それも現在の日本の人口が他の国より多いためである。しかしこれからは人口が激減するため、GDPも減少する。

日本には、高齢者の増加による年金や医療費など社会保障費の増額で、64歳以下の収入に対する社会保障の負担率は、2060年には64.1%にまで膨らむ。

またGDPの高さに対する国の借金の比率の高さは、日本はすでに世界一。

このままでは国の財政が破綻し、年金も医療費も負担できなくなってしまう。

 

Low road capitalismからHigh road capitalism へ

日本の現状は「低生産性・低所得(Low road capitalism)」、つまり「いいものをより安く」がモットーだが、そこから「高生産性・高所得(High road capitalism)」「よりいいものをより高く」売る社会へと変革する必要性がある。

 そうすると、商品は「価格の競争」ではなく、「価値の競争」で需要が決まるようになる。労働者が生涯にわたり学習を続け、高スキルを身に着けることで、労働者と管理者の壁が薄くなり、結果的に労働者の賃金が底上げされる。

 世界第4位という日本人労働者の質の高さ、特許の数の多さに対し、国の生産性は低すぎる。労働者の質に見合った生産性を確保するためにも、国民の財政負担を減らすためにも、Low roadからHigh roadへの移行は必須

 

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新作「一人称単数」から考える、村上春樹の魅力とは?

今回、新作の発表にあたって、そこから村上春樹の魅力を再考察してみた。

村上春樹短編集「一人称単数」について

(2020年)7月20日に発売された、村上春樹の短編集。巷でも話題になっているし、あえて今更説明することもないと思われるので、簡単な説明だけにとどめておく。この作品は、短編集としては「女のいない男たち」以来、6年ぶりの新作になる。表紙のイラストを描いている豊田徹也という人は、知る人ぞ知るというか、なかなか新作の出ない漫画家らしい。

 

過去の短編集、「女のいない男たち」に関しては、話によってクオリティーにばらつきがあった。「ドライブ・マイ・カー」「木野」という作品は、作者が時間をかけたというだけあって、きちんと作りこまれていた。しかしその他の作品、たとえばシェエラザードなどは、どう考えても手癖だけで書かれていて、斬新なアイディアもなければ、話の展開も春樹作品の王道というか、使い古された*1クリシェ(男女が寝て、ベッドで会話をしている設定。寝るにいたる過程は省かれる)でしかなかった。

 

 もし今回の短編集がそんな作品ばかりだったとしたら、私は憤慨して買ったばかりの本をどこかに売り払ってしまうつもりだった。しかし今回に限っては、幸いそんな悪い予感は当たらなかった。

 とりあえず、一話ずつ、簡単に解説したいと思う。

 

「石のまくらに」

バイト先の女の先輩と寝る話で、そこに至るまでの過程は極力省かれているという、前述した春樹小説の王道。女の先輩は短歌の歌集を出していて、主人公がその短歌に思いを馳せるという話。主人公の女の先輩とその短歌に対する独特な考察が面白かった。

 

「クリーム」

主人公はあまり仲の良くなかったはずの知人の女性のピアノのリサイタルに招待される。当日、現地についてもなぜかリサイタルは行われておらず、帰りに寄った先の公園で、不思議な老人に出会う。そこで老人から聞いた、「円」と「クリーム」にまつわる不思議な話について、主人公がひたすら考えを巡らす話。

 

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ

すでに亡くなっているチャーリー・パーカーというジャズ演奏者が、新譜を出したという架空の設定で、主人公が文芸誌に過去に投稿したレビューにまつわる話。ある日、主人公はレコード店で、その実際存在しないはずのレコードを発見する。架空のレビューには、著者の独自の考察がなされていて、著者のジャズへの愛が伝わってくる作品。

 

「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles

ビートルズが世間を席巻していた時代(おそらく著者の青春時代)を舞台とした、ビートルズのレコードとそれにまつわるガールフレンドとの回顧録。ガールフレンドの家族、特にその当時引きこもりだった兄との奇妙なやりとりが印象的な作品。

 

「『ヤクルト・スワローズ詩集』」

著者の野球と家族にまつわる回顧録。著者がなぜヤクルト・スワローズと神宮球場をこよなく愛するのかがとつとつと語られている。毎回負けてばかりいたヤクルト・スワローズに対し、次のような名言が語られる。

 

人生は勝つことより、負けることのほうが数多いのだ。そして人生の本当の知恵は、「どのように勝つか」よりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。

 

ちなみに著者が球場で書いた「ヤクルト・スワローズ詩集」なる自費出版の詩集が、今はプレミアがついて売られているとのこと。

 

「謝肉祭(Calnaval)」

主人公の知る中でもっとも醜い女性について語られた話。これもお決まりの展開だが、主人公はその女性とシューマン「謝肉祭」の素晴らしさを語り合う仲になった。しかし女性はある事件を機に、世間から姿をくらましてしまう。

 

品川猿の告白」

群馬の温泉宿に泊まった主人公が、そこで知り合った人間の言葉を話す猿とすごした一夜の話。猿は恋をした女性のあるものを盗んで自分のものにしていた。この話の、主人公が例によって煙に巻かれる展開は、お決まりといえばお決まりかもしれない。

 

「一人称単数」

この短編集の中で、一番パッとしない話だった。柄になくスーツを着て、バーへ飲みに出かけた主人公が、店で隣に座った知らない女性客にいきなり絡まれるという話。なぜ絡まれたのか理由が釈然としないうえ、女性が絡むきっかけになったいきさつにも具体性がなく、謎が謎のまま終わる展開に消化不良感を覚えた。

 

総評

前回、村上春樹氏とノーベル賞で書いたが、私は村上春樹の最近の小説について、危機感を感じていた。小説のクオリティーの是非はそっちのけで、話題ばかりが先行し、買うだけ買ってチラッと読まれたあとの本がブックオフに山積み状態。著者の周囲には、作品を持ち上げるイエスマンばかりだと聞くし、かといってアンチの意見の大半は非生産的、非有用的だ。現在の彼の作品を色眼鏡なしに正当に評価する人はどのくらいいるのだろうか。これではまるで「裸の王様」さながらではないか――。

村上春樹氏とノーベル賞 - コーヒーさえあれば、何とかなるはず

 

しかし今回は短編集ということもあって、あまり著者の癖が悪目立ちしている感じはしなかった。(くどいうえに露骨すぎる性描写や、社会問題に関する取って付けたような描写など)。ところどころお決まりな感がするのは否めないが、全体的にバランスよくこぎれいにまとまっていて、良質な作品がそろっている。特に目新しいことにチャレンジしている印象はないが、著者の持ち味が遺憾なく発揮されている佳作といえるだろう。星をつけるとしたら、4.5くらい。

 

 村上作品の魅力とは?

また前回は、春樹作品の問題点、課題点ばかりを指摘してしまったが、私は決して彼の作品を全否定しているわけではない。

たしかにリアリティーに欠けているものも多く、つじつまがあわないところや、整合性が取れていない部分がある一方、凡人では思いつかないような、意外性に富んだ展開や状況設定、緻密な情景描写や巧みな心理描写、音楽や芸術に対する審美眼、社会に対する深い洞察や人生の知恵などは、彼の小説ならではの魅力だ。そのため今回は、逆に読者が彼の小説のどこに惹かれるのかを、私なりに分析してみたいと思う。

 

二元論で語らない

村上春樹の小説の魅力の一つに、彼があまり二元論で物事を語らない点が挙げられると思う。

 たとえばある会社員がいて、上司にいつも「お前は仕事が遅い!」とどやされていたとする。普通の人間だったら、たぶん次の二通りの発想をすると思う。ひとつは「俺のやり方に理解のないクソ上司」と上司の理解のなさを否定する発想。そして次は「俺は仕事が遅いからダメなんだ」と自分の能力のなさを否定する発想。そこには、「理解のない上司=悪」「仕事ができない自分=ダメ」など、良いか悪いかの判断基準しかない。

 

しかし春樹小説の登場人物だったら、この状況をどうとらえるだろうか。

 

たとえば

「僕の前世はおそらくカタツムリだったのだろう。だから僕にはそもそも『物事を素早くこなす』という遺伝子が体内に組み込まれていないのだ」

 などと結論づけ、ワイングラスかビールを片手にジャズのレコードを聴きながら、それ以上深く考えることなく寝落ちしてしまうことだろう。

 

「え、カタツムリ?!」

 もちろん現実的に考えたらありえない話だし、ビジネスの場面においても求められる解答ではない。こんな考えを真面目に人に話したら、きっと頭がおかしい人間だと思われてしまうだろう。

しかし読者として、そんな発想をする登場人物を目の当たりにしたら、思わずクスっと笑わずにはいられない。そして特に二元論の発想に疲れている現代人にとっては、そのありえない発想そのものが、かえって安心感や心の癒しにつながるのである。

 

村上春樹ノーベル賞その2

最後に、村上春樹ノーベル賞について、もう一度考察してみる。

前回「今のままではノーベル賞は取れそうもない」と結論づけたものの、私はそもそもノーベル文学賞の審査基準を具体的にほとんど知らないし(知っているのは、どれだけ世界平和に貢献しているか、ということくらい)、ノーベル賞を取った作家の作品も数えるほどしか読んでいないため、私の主張にも説得力はあまりなかったかもしれないと思いなおした。

それにノーベル賞を取ったからといって、それが作家人生のすべてではないとも思う。

 

当人をディスるのが目的ではないので、ここで引き合いに出すのは大変心苦しいのだが、たとえば1995年にノーベル賞を取った大江健三郎について。世間での認知度はまあまああるとはいえ、その後の作品は、全然話題になっていないし、周囲でも読んでいる人をほとんど見かけたことはない。

ベストセラー作家であり、出す本が毎回話題になる春樹氏と、ノーベル賞はとったが、その後泣かず飛ばずの大江氏。現実問題として、作家人生としては、どちらが幸せなのだろうか。あくまで主観的な指標にしかすぎないが、春樹氏のほうが商業的にも成功しているし、おそらく幸せな作家人生だと言えるのではないか。

 もちろんカズオ・イシグロのように、ノーベル賞を受賞したうえ、世間でも広く読まれているというのがベストなことはいうまでもないが。

 

私としては、たとえ著者がノーベル賞を取ったとしても、取らなかったとしても、末永くいち読者であり続けたい。そして気分次第で読んだり読まなかったりしながら、あるときは褒めて持ち上げたり、またあるときは文句を言ってけなしたりしていきたいと思っている。

 

Written by ユカ@コーヒー

*1:使い古されたおなじみの手法、陳腐な表現のこと

虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか——少年の心の闇に思いを馳せる

虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか

虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか

石井光太著「虐待された少年は、なぜ事件を起こしたのか?」

 この本を読んだきっかけ

私自身もいち虐待の被害者であり、過去に人から「将来の犯罪者」などと罵られたこともある。そのため、自分にも共感できる要素、理解できる要素があるかもしれないと思ったのが、本書を手に取ったきっかけである。

この本では、少年院での更生プログラムや、施設の実態の紹介、虐待から犯罪にいたった少年たちの実例、性犯罪に手を染めたり、ドラッグに溺れていく少年たちの様子や心理状態などを解説し、はたまた被害者遺族の奮闘、そして最後に「非行少年は生まれ変われるのか」という章で幕を閉じる。

 

少年が非行、犯罪に走るきっかけとは

 少年たちが非行や犯罪に走るのは、虐待、いじめ、発達障がい、知的障がいなど、いくつものファクターが重なってのことのようだ。

その中でも、たいていは父親が暴力をふるったり、ヤクザや暴力団などだったりする家庭の出身者が多かった。私自身も、父親の言葉による虐待を受けながら育ち、それだけでもずいぶんと心に痛手を負ったが、本書に出てくる少年少女たちは、それ以上のありえない凄惨な暴力(タバコの火を身体に押し付けられる、ドラッグをやらされて犯される、貴金属でめったうちにされるなど)を受けて育っているとのことである。

その結果家にいられなくなって近所を徘徊し軽犯罪を犯す、不良グループの一員となって、売春やドラッグの売買に手を染める、女子と対等な関係を築けず、また人間関係がうまくいかないストレスから、下着泥棒やレイプなどの犯罪に手を染めるなどの境遇を辿った結果、少年院に送られるということらしい。

本書を読んでいるうち、私も本書に出てくる少年たちと、同じ経過をたどっていてもおかしくなかったと思えてきた。

 

本の内容が他人事と思えない

私たちの世代は、ちょうど援助交際が流行っていた世代で、私も当時それに近いことをしていた。18で家を出たあと、大学も行く気が起きずに行かなくなり、まともな仕事をできる精神状態ではなく、様々な職を転々としていた。その際に知り合った何人かの男に、レイプまがいのことをされたり、マリファナなどを吸わされたりしたこともあった。

中でもマリファナを自宅で栽培している男に、同居の話を持ち掛けられたことがあった。男は私の家の荷造りを手伝いに来たが、私の部屋が汚すぎたのが理由で、そのまま帰ってしまった。頭にきた私は警察に男の情報を垂れ流した。(そいつがその後どうなったかは知らない。)

しかし今になってよく考えてみると、もしそいつと同棲でもしていたら、私はマリファナ漬けにさせられて、廃人になっていただろうと思う。実際、ドラッグの後遺症(と思われる)で精神疾患にかかり、30過ぎまで、恋愛やセックス依存症のような状態が続いた。

 

ドラッグの後遺症

 私が何とか依存症や精神疾患から立ち直れたのは、たぶん、2つか3つくらいのカウンセリングを並行して受けまくったためだと思う。その中でもFAPというものがあり、そのカウンセラーも元アルコール依存症で、実際にFAPを受けたり、依存症の会に出たりして立ち直ったらしい。

FAPは高額なうえ、ちょっと手法が怪しいので、万人には勧められるものではない。しかしもしそれを受けていなかったら、私は一生依存症で、普通に働ける状態、普通の生活ができる状態には戻らず、半ば廃人のままだったと思う。そもそも依存症は、脳の障がいのようなもの(だと個人的には思っている)なので、本人の意識でどうにかするには限界があるのだ。

 この本にもチラッと出てきたが、依存症は「否認の病」と言われている。一度依存症になったら立ち直るのは本当に難しく、相当の覚悟を持って自制しない限り、欲求が抑えられなくなる。何度断ち切ろうとしても断ち切れず、また元の木阿弥に戻ってしまうことも多々ある。いったん依存症になると、快楽を求めるあまり、仕事や人間関係など、すべてがおろそかになってしまう。(私にも経験がある。)

たかが2、3度マリファナを吸っただけで、重篤精神疾患になるぐらいなので、マリファナ覚せい剤を常用し、一年、二年と吸い続けたら廃人になる、というのは十二分に理解できる話である。

 

性犯罪に走る少年たち

 また私は女性だが、性犯罪に走る少年たちの気持ちも、分からなくないと思った。彼らは異性を人間として扱っていないうえ、女性の気持ちが分からないとのことである。実際、私自身も異性を人間としてみなしていない時期があった。だからもし自分が男だったら、暴力やレイプをしていたとしても、何らおかしくなかっただろうと思う。

彼らをかばうわけではないが、母親(異性の親)から人間扱いされずに育ったら、それは相手のことを人間と思えなくなっても仕方ないのではないか。自分の気持ちを理解してもらえないのに、相手の気持ちなんて想像できるようになるはずがないのだ。

 

被害者遺族の心の傷

 ただそうは言っても、第五章の被害者遺族の話を読んで、彼らの犯罪が決して許されるわけではないと気づかされた。被害者のために、犯人やその家族に賠償金を求めても、少額支払われただけで支払いが止まってしまったり、被害者のための活動をしていると、近所から白い目で見られたり、少年院から出てきた犯人が何も反省していなかったり、また同じような犯罪に手を染めたりしているというのが、被害者遺族の実情のようである。加害者が反省しないことで、心の傷は癒されないうえ、民事訴訟に持ち込むための高額な弁護士費用なども自腹であるなど、その心理的、物理的ダメージは図りしれないのだ。

 

「田川ふれ愛義塾」

 一度虐待に遭って犯罪に手を染めた少年たちは、ゾンビのようになってしまい、いくら少年院で更生プログラムを受けたところで、人間の心を取り戻すことは不可能なのではないか。そこまで読んで、絶望的な気持ちになってしまった。

しかしこの話には続きがある。最後の章では、「田川ふれ愛義塾」という更生施設が紹介されている。その創設者の工藤氏は、自身も元暴力団の構成員で、犯罪の経歴があるそうだ。だから少年たちの気持ちや、彼らへの接し方も、直観的に分かるとのこと。

他の更生施設での少年たちの更生率が二割程度に対し、そこでは男子八割、女子が五割程度、全体で七割程度が更生するらしい。高い更生率の秘訣は何なのか。

本書によると、そこでは工藤氏を中心として、猿の「群れ」のような子弟関係が築かれていて、少年たちは「ボス」である工藤氏に絶大の信頼を寄せるようになるのだという。当施設のスタッフは、少年たちを「信頼」し、無償の「愛情」を彼らに注ぎ、全力で彼らに「向き合う」のだそうである。それによって、彼らはその「恩に報いたい」とか、「期待に応えたい」と思うようになるのだそうだ。本にもあったが、それが適切な支援の形かどうかは別として、一種のロールモデルとは言えるだろう。

 

最後に

この本を読んで、かつて「MONSTER」という漫画があったのを思い出した。

戦後の東ドイツにあった、「511キンダーハイム」という孤児院では、「西ドイツを駆逐する優秀な戦闘員」を生産するため、孤児たちから名前や感情を奪い、闇に打ち勝つように育てるという「実験」が行われていた。

しかし彼らは逆に闇に飲みこまれてしまい、最終的に子供同士の殺戮が繰り広げられてしまう。そこで育った「ヨハン」という少年がのちに殺人鬼となる。主人公の日本人医師、「テンマ」は、ヨハンを手術で助けてしまったことをきっかけに、ヨハンの足跡を追う、というストーリーだ。

ちなみにその孤児院がその後どうなったか。孤児院の院長ペドロフが、最終的に行った「実験」では、子供を闇に食われない人間にするために必要なこと、それは彼らに「愛」を与えることだった――というオチである。

この話は、この本の結論にも、そっくりそのまま当てはまると思う。人間を人間たらしめるのは、他でもない「愛」であり、愛があって初めて人間は、他人を「信頼」し、相手や自分を「大切」にすることができるのだ。

「愛情」「信頼」を普通に成長過程で身に着けることができた人には、そのありがたみが分からないかもしれないし、犯罪者である少年たちに思いをはせることもないかもしれない。ただそれがない家庭で育った人には、それがいかに尊くて大切なものか、それがないと人間がいかに簡単に「闇」に引きずり込まれてしまうかということが分かると思う。

しかし私はどんなに心が荒み切った人でも、簡単な道のりではないとはいえ、「愛」を知ることができれば、いずれは更生できると信じたい。それがこの本に述べられている、唯一の「希望」だと思う。

 

Written by ユカ@コーヒー

 

ジョージ・オーウェル「1984」を読んだ

ジョージ・オーウェル「1984」

ジョージ・オーウェル1984

 

概要(作品について)

トランプ大統領就任後、再び世界中で評価が高まっているという、ディストピア小説ジョージ・オーウェル1984を読んでみた。

この小説は、村上春樹の「1Q84」が刊行されたのにちなんでか、2009年に新訳版が出ている。(新訳というだけあって、比較的読みやすいと思う)。

「1084」で描かれている独裁主義体制の世界を表す表現として、「オーウェリアン(Orwellian)」という言葉があるほど、欧米諸国ではなじみのある作品であり、20世紀の名作の一つとされている。

またレディオヘッド「2+2=5」という曲に代表されるように、現代の芸術や文学などに深い影響を与えている作品でもある。

 


Radiohead - 2 + 2 = 5

 

あらすじ

ときは1984年。主人公のウィンストン・スミスは、オセアニア(世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアに三分割されている)の都市、ロンドンにある、真理省で歴史や既成刊行物の改ざんの仕事に携わっていた。

1984年のロンドンは、ビッグ・ブラザーという髭面の党首(旧ソビエト連邦の政治家、スターリンを思い起こさせる)を中心に据え、「イングソックイングランド社会主義の略称)」というイデオロギーを元に、統治された全体主義国家であり、オセアニアでは、常にユーラシアやイースタシアとの交戦が繰り広げられている。

またそのスローガンは次のようなものである。

  • 戦争は平和なり
  • 自由は隷従なり
  • 無知は力なり 

オセアニア公用語は、犯罪の抑制と自由な思考を制御する目的で考案された、「ニュースピーク」という、英語(オールドスピーク)を元とした、新しい言語にとって代わられようとしていた。

ウィンストンは、絶対忠誠を誓わされる党の在り方、社会の在り方に疑問を感じ、日記(思想犯罪として、禁止されている)を付け始める。

ある日、ウィンストンは、ある女性に自分の跡を付けられていると感じ、身の危険を感じるようになる。しかしその女性(ジュリア)は、ウィンストンに好意を持って接近してきたことが後に発覚するのだった。

やがてウィンストンとジュリアは、人目につかない場所で、逢瀬を重ねるようになる。ウィンストンが見つけた、とある古物商の二階の部屋を借り、密会を繰り広げる二人。

ウィンストンは、党の高級官僚であるオブライエンから、「ブラザー同盟」なる党に反目する地下組織の存在をほのめかされ、ジュリアともどもその一員になることを承諾する。

しかしそれはオブライエンの罠だった。オブライエンから受け取った、エマニュエル・ゴールドスタイン(党への反逆者。二分間憎悪で、憎悪を向けられる対象となっている)が書いた禁書「寡頭制集産主義の理論と実践」を、ジュリアとウィンストンが二人で読んでいる最中、二人は部屋の提供者で古物商のチャリントンによって、密告され、連行されてしまう。

愛情省(犯罪者を拘束し、拷問、尋問、処刑を行う省。ニュースピークの諸原理より、本来の役割とは、逆の意味の名前が付けられている)で、拷問にかけられ、尋問されるウィンストン。そこでは、辱めを受けて、犯罪者を徹底的に追い詰めるとともに、党への忠誠を誓うように再教育される。

ウィンストンに対してその役目を担うのが、オブライエンだった。オブライエンは、ウィンストンの主張をとことん捻じ曲げ、凌辱し、ウィンストンの持っている、「人間らしさ」を根本から破壊しようとするのだった。

ウィンストンは最後の最後までジュリアをかばっていたが、「101号室」で、大嫌いなネズミを前にすると、最終的にジュリアを出し抜く言葉を口にしてしまう。それこそがオブライエンたちの真の目的であったようで、ウィンストンは解放される。

その後、ウィンウィンはジュリアに再会するが、彼女もウィンストン同様、愛情省での尋問において、ウィンストンを裏切っていたと告白する。

オブライエンの再教育により、党への忠誠(二重思考。2+2=5であると党が言ったら、それが間違いだとしてもそう信じ込むなど)を誓わせられたウィンストンは、ビッグ・ブラザーへの愛を口にしながら、処刑される手前のシーンで物語は幕を閉じる。

 

総評

現代社会にも通じる暗黒社会

1984」に描かれているのは、想像するだけでゾッとするような暗黒社会だ。しかしその世界観は決して対岸の火事などではなく、現代社会との共通点や今の世界情勢を彷彿とさせる事象も多々見受けられる。

たとえばテレスクリーンとマイクがそこかしこに設置され、始終行動を監視されているさま、党にとっての危険な思想を持つと見なされているものが、次々と処刑されていくさまは、現代の中国共産党一党独裁社会を思い起こさせる。

またユーラシアやイースタシアという、仮想敵を想定し、オセアニアがたゆまぬ戦線を繰り広げるさまは、9.11以降、中東諸国を敵に仕立てあげ、主には軍需産業の維持目的のための戦争を繰り広げるアメリカに重なる。

そして過去の史実やデータや刊行物が、ビッグ・ブラザーの預言や、公言された最新の事実と合致するように改ざんされるという事象は、紛失したと言って破棄されたり、都合のいいように書き換えられたりする、昨今の公文書の偽造問題そのもののようだ。

このように「1984」が書かれた当時よりも未来である現代社会でも、作中の予言が近からず遠からず具現化しており、その先見性や普遍性が、この作品を名作たらしめ、現代でも広く読まれている理由であると思う。

 

ただのオーソドックスな恋愛物語ではない

またこの小説は、ウィンストンとジュリアの関係性を描いた、オーソドックスな恋愛物語としての側面も持っている。しかしそれがただのお涙頂戴の「悲恋物語になっていない点も、評価に値する点だと思う。

二人は愛し合っている(ように見える)のだが、決して結ばれないことが最初から分かっているし、これがつかの間の快楽だということも心得ている。最後に二人で心中するとか、逃げ出すとかいうハッピーエンドではなく、ウィンストンとジュリアが、お互いのことを裏切ってしまうのだが、その展開が作品にリアリティを与えているように思う。

作者が描きたかったのは、あくまで「恋愛」ではなく、「人間らしさ」とは何かなのであると思う。ウィンストンの言動を通じて、「愛」とか、「良心」とか、「高潔さ」だけでなく、「裏切り」、「欺瞞」、「自己憐憫」、「弱さ」と言った、人間の負の側面も描かれており、それが現代人にも通じる「リアル」や「普遍性」を獲得していると思う。

 

「希望は、プロール(庶民)の中にある」

最後にウィンストンが尋問中にオブライエンや党への最後の反発心から発した言葉が印象に残った。

「恐怖と憎悪と残酷を基礎にして文面を築くなんて不可能です。長続きするはずがない」

「宇宙には何か—―私には分かりませんが、精神とか原理とかいったようなもので――あなた方が絶対に打ち勝つことの出来ないものがあるんです。(その原理とは)『人間』の精神です」

ビッグ・ブラザーの支配下ほどではないとしても、先に挙げたように、今の世の中も負けず劣らず狂っていると思う。しかしオーウェルは、その言葉によって、どれだけ社会が狂って間違った方向に向かっているとしても、元来人間には、それを正す力が備わっているという希望を託したかったのだと思う。

最後に処刑されてしまうという、バッドエンドにつながっている救いようのない物語の中で、その言葉が唯一の希望であり、救いであるように思えた。

 

Written by ユカ@コーヒー

私が椎名林檎を嫌いな理由

(注:誹謗中傷ネタです。好きな人は見ないでください)

 最初に

私はあまりテレビも見ないうえ、最近の邦楽もほとんど聞かないので、9割以上の芸能人は知らないか、興味関心がないのだが、昔から彼女のことは大嫌いである。色々と嫌いな理由はあるのだが、今日はなぜ彼女が嫌いか、その理由を掘り下げて考えてみようと思う。

また記事を書くにあたって、彼女のことをもっと調べるべきだと思ったのだが、情報を見ているだけで辟易してしまうので、主に過去の情報や、断片的な情報しか知らないことを、最初にお詫びしたいと思う。

 

自分が主役——誰もリスペクトしていない

イギリスに、レディオヘッドという、UKロックの重鎮とも呼べるアーティストがいる。そのCDに自分のサインか、落書きをしているのを見たときに、私は確信した。「この人は、レディオヘッドをおちょくっている」 

100歩ゆずって、もしこのCDが、リンキンパークとかのCDだったら、まだ理由はわかるし、許せるだろう。というのも、主にアメリカのロックファンは、みなリンキンパークをバカにしているからだ。 

しかしレディオヘッドは、ロックリスナーにも、(最近の若いリスナーに関してはどうか知らないし、日本のリスナーは例外としても)リスペクトされているし、ロックの歴史を塗り替えたと言っても、過言ではない(と私は個人的に思っている)アーティストだ。

 もし私がアーティストだったら、きっとレディオヘッドのCDは神棚にでも飾っておくだろう。だからハッキリ言って、これはレディオヘッドに対する冒とくだと言わせてもらう。

日本ではレディオヘッドの認知度が低く、この出来事が炎上したというようなことは聞いたことがないが、私自身は非常に憤りを感じるテーマである。

 結局、この人は、心の中では、レディオヘッドよりも、ニルヴァーナよりも、ピストルズよりも、「自分自身が一番偉い」「自分こそが世界の中心」とでも思っているのではないだろうか。

 

軸が他人――世間に媚びないと生きていけない

私の昔付き合っていた人が、「彼女は外連味(けれんみ 注:ハッタリやごまかしの意)のある人間だと思う」と言っていたのだが、私もそれには同感である。

 昔、彼女が、イチロー元選手に、「あなたは私のヒーロー」とか寒いことを言って、媚びまくっていた記憶がある。彼女は権威には媚びて、どうでもいい人は蹴落とす、典型的な権威主義だと思う。

 また他人からの評判や、世間体を気にしすぎるところがあると思う。自分軸でなく、他人軸で生きているから、どうも意見や態度が定まらない印象を受ける。

 夏目漱石の言葉に、次のような言葉がある。そしておそらく、彼女の心境もこのようなものだろうと想像する。 

「今まではまったく他人本位で、根のないうきぐさのようにそこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったとようやく気付いたのです。(中略)けれどもいくら他人に誉められたって、もともと人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀の羽根を身に着けて威張っているようなものですから」

 

彼女の「勝ち戦」という歌の歌詞に、「No one knows how I live my life Cause I don’t belong to anywhere(誰も知らない 私がどんな生き方をしているか だって何処にも属してないから)」という一節がある。おそらく彼女本人のことではなく、他者の批判だと思われるが、まるで「どこか(世間)に属していないといけない」ような言い草だ。

 しかしはたして「どこか(世間)に属している」ことがそれほど重要なことなのだろうかと思うが、彼女の中では、おそらく重要事項なのだろう。

 だが逆説的に言えば、世間に属していないと、少なくとも属している実感がないと、たった一人では何もできないということではないだろうか? きっと世間から見放されてしまったら、世間という後ろ盾がなくなってしまったら、おそらく彼女は何もできないし怖いのだろう。

だから世間に媚びへつらう、先のうきぐさのような地に足のつかない生き方をしているのだろう。基本的に私は人に媚びるのは嫌なので、彼女のような生き方は絶対にできないし、また最もしたくない生き方だと思っているが。

 またコロナの中でライブを強行開催しようとするなど、他人に媚びるわりには、自身のファンや周りの人間を全然大切にしていないように思う。

 

人を貶めて、相対的に自分の価値を上げようとする

この人はとても負けず嫌いなのだと思う。他人をリスペクトしたり、大切にはしたりしないかわりに、人を蹴落とすことには躍起になっている

 昔の話だが、「26歳くらいのとき、死んでほしいと思う人がいた。(中略)でも最近勝ったと思った」とか言う記事を見かけたが、そんなに人に勝つことが大事なのだろうか。また何を根拠に勝ったとか、負けたとかを判断しているのだろう。

 人の価値というものは、主観的なもので、絶対的なものではないし、「勝ち/負け」というのも、単なる主観ではないのか。私自身は誰かより誰かのほうが勝っているとか、負けているとか、そういうことにこだわるのは、バカバカしいと思う。

 ポーカーに例えると、自分の持っている5枚のカードは、他の人のものとは違うものである。5枚のカードの中で、たとえば自分の3と相手の10を比べれば、相手の勝ちだし、自分のクイーンと相手の10を比べれば、自分の勝ちである。いったい、何を基準に、「勝った/負けた」などと言っているのだろうか

 先ほどの話に戻るが、彼女の軸は「他人軸」なので、おそらく自分の価値も相対的、流動的なものなのだろう。だから他人に勝つことで、自分の価値が相対的に高まったと思う瞬間が、彼女にとっての喜びなのだと思う。

 ただし軸が他人にあるせいで、いつも他人の脅威に脅かされているように見える。それに他人に勝つことはできても、自分自身に勝つのは難しいのである。

 

名前の付け方が悪趣味

これも古い話で恐縮だが、東京事変とか、愛車がヒトラーとか、ことごとく名前の付け方が悪趣味である。センスの前に、人道主義的な問題だろう。

 彼女はどちらかというと、右翼的な考えの持ち主のようなので、その思想を反映してのことなのだと思うが、「東京事変」は、満州事変を彷彿とさせるものであることは明らかだし、「ヒトラー」はナチスであるのは明白だ。たとえ日本人は何とも思わなくとも、ほかの国の人から見たら、絶対に印象がよくないと思う。

結局のところ、こういう人がいるせいで、日本が諸外国から浮くんじゃないのか。同じ日本人として、はなはだ迷惑である。

 そして彼女のような人がオリンピックの親善大使に選んばれた理由にも、疑問を感じずにいられない。彼女の自己中心的、自分ファーストな行動理念は、オリンピックのコンセプトのひとつである、「世界中の人々が多様性と調和の重要性を改めて認識し、共生社会をはぐくむ契機となるような大会とする」という内容とは相いれないものである。

 彼女を起用したことにより、「オリンピックという機会を利用して、日本の存在感を世界にアピールしたい」だけ、「日本はほかの国と協調する気はなく、ただ自国が目立てばそれでよい」、そんなふうに他国から思われてしまうのがオチではないだろうか。

 

まとめ

音楽的な才能については、ここではどうこういう気はないが、彼女は人としては、もう終わっていると思う。 

「グロースマインドセット「フィックスドマインドセットという概念があるのだが、彼女の場合は、おそらく後者だと思う。ちなみにここではそれらを詳しく説明するのは省くが、端的に言うと、「グロースマインドセット」とは、成長余地のあるマインドセットのことで、「フィックスドマインドセット」とは、成長余地のないマインドセットである。 

「グロースマインドセット」の持ち主は、困難を一人で乗り越えていく気概を持っているが、「フィックスドマインドセット」の持ち主は、考え方が後ろ向きで、他者の成功をねたむ傾向があるそうだ。

 たしかに彼女は才能や素質はほかの人より恵まれているから、それでこれまでは何とかやってこれたのだろうと想像するが、音楽的な才能は別として、このままでは、もう人としての伸びしろはないと断言する。

 音楽の才能、世間での評価、社会的な地位——客観的に見れば、何でも持っていて、恵まれているはずの人生だが、なぜ本人自身はあんなに不幸そうなのか。そしていくら他人を蹴落としたとしても、自分自身の内面が変化、成長しなければ、今の不幸な現状はけっしてブレイクスルーできないだろう。

 

Written by ユカ@コーヒー

話題作「天才を殺す凡人」を読んだ――誰でも天才?!

天才を殺す凡人

天才を殺す凡人

 


最初に

この本を手に取ってまず思ったこと。すごく意地悪な言い方すると、「ふーん、自分のことを『天才』と思い込んでる、意識高い系が読む本ね」。だって意識の低い「凡人」はこの手の本はまず手に取らないだろうし、かといって、世の中の天才の割合に対して、この本の読者数は多すぎる、と言った具合である。

というわけで、私自身も同じく、「『もしかしたら自分も天才かもしれない』と、人生で何度か思ったことのある意識高い系」というレッテルを貼られるのを承知で、この本を紹介させていただく。

 

世の中の人間は、大体三種類に分けられる

ちなみにこの本の定義によると、世の中の人間は三種類に分けられるそうである。

 

  • 天才・・・独創的な考えや着眼点を持ち、人々が思いつかないプロセスで物事を進められる人。創造性は高いが、再現性、共感性は弱い。
  • 秀才・・・論理的に物事を考え、システムや数字、秩序を大事にし、堅実に物事を進められる人。再現性が高いが、創造性、共感性は弱い。
  • 凡人・・・感情やその場の空気を敏感に読み、相手の反応を予測しながら動ける人。共感性はあるが、再現性、創造性はない。

 

ここまで気づいて、私、ユカはハッと気づいた!

 

「やばい、私、どれにも当てはまってないじゃねーか」

 

まず百歩譲って、独創的な考え、着眼点に関しては、そこそこはあるとしても、しかし人々が思いつかないプロセスで物事を進められる気がしない。

次に、ある程度論理的な考え方はするが、ガチガチの論理思考ではない。秩序も大切にしないし、何より堅実に物事を進められない。(これは一番当てはまらない気がした)。

そして感情やその場の空気には敏感なものの、相手の反応を予測しながら動けない・・・。

 

そこで思わずこの本につっこんでしまった。

『変人・奇人』とか、『ダメ人間』とか、どれにもあてはまらない、『その他』て項目はないんか!もしあったら、絶対当てはまる自信あるんだけど」

 

・・・。

 

残念ながら、少なくともこの本にはそんな項目はないようである。私は、自分がいったいどれなのか分からないまま、もやもやとした気持ちを抱えて読み進めていった。

 

三人のアンバサダー

 ありましたよ!どっちつかずの・・・いや、どちらにも当てはまる人種が。それがステージ2で紹介されている、3人のアンバサダーである。

 

天才と秀才の橋渡し。創造性もあり、再現性もある。クリエイティブでロジックも強い。

 

  • 最強の実行者:

秀才と凡人の橋渡し。再現性と共感性を武器に持つ。つまり、ロジックも強くて、人の気持ちもわかる。まさにどの会社にもいる「エース」。

 

  • 病める天才:

天才と凡人の橋渡し。創造性と共感性を武器に持つ。クリエイティブなだけでなく、それが世の中の人々の心を動かすか? インサイト潜在的な欲求)に届くかどうか? まで直感的に分かる。

 

うーん、しいて言えば、私はこの中では「病める天才」だろうか。天才かどうかは別として、病んでるのは事実だし(ハハハ)。「病める病人」ならピッタリなんだけど(笑)

 

 

7種類の主語の違い

そして天才・秀才・凡人は、それぞれの使用する主語の違いで、全部で7種類に分けられる。

 

 

タイプ

主語

凡人

 

I

自分

Y(You)

相手

W(We)

家族や仲間

秀才

K(Knowledge)

知識

R(Right or Wrong)

善悪

天才

X(存在)

世界は何でできているか

Y(認識)

人々は世界をどう認識するか

 

なるほど、凡人<秀才<天才の順に、主語のスケールがでかくなっていくというわけだ。

 

 

 

才能を発揮するには、3つのステージが

 

才能を活かすには、3つのステージが必要。それぞれ説明すると・・・

 

ステージ1:自分の才能を理解し、活かす

「自分に配られたカードを知ること」、そして「自分に配られたカードの使い方を知ること」が必要。

「天才に生まれたかった」とか、「秀才になりたかった」などと考えるのは、時間のムダ。そして自分の手札を確認し、それをどう組み合わせて、どう繰り出すかを考える。とにかく、カードを出し続けて勝負し続けることが大事!

 

ステージ2:相反する才能の力学を理解し、活用する

種類の異なる相手との橋渡しをしてくれるのが、アンバサダーである。アンバサダーを説得するためのキラーフレーズは「あなたならどうする?」である。「相手の発言」を出来るだけ多く使用するのが効果的。

 

ステージ3:武器を選び抜き、リミッターを外す。

 才能×武器の使い方をマスター。

 

創造性と相性のいい武器:

アート、起業、エンジニアリング、文学、音楽、エンターテインメント

再現性と相性のいい武器:

サイエンス、組織、ルール、マネジメント、数学、編集、書面、法律

共感性と相性のいい武器:

言葉、マーケティングSNS、写真、対話、地域

 

才能と武器、それぞれを適切に使うことで、「世の中が認知できる成果」となる。

 

誰の中にも天才はいる

 誰の中にも、天才:秀才:凡人が様々な比率で存在する。

よって「誰の中にも天才はいる」と言える。

自分の中の「秀才」や「凡人」が「天才」を殺さないよう、育てることが大事!

 

総評

図や絵などを多用し、体系立てられた理論が、とても分かりやすくすっきりと説明されている。

また今回このようなストーリー形式を選んだ作者の意図は、「実際のビジネスシーンに落とし込むことで、三つの才能がどう活かされているかをイメージできるようにした」ことと、才能の種類を三つだけに分けることで、「才能をできるだけシンプルに伝えること」だそうである。

そして実際にこれは功を奏しているように思う。まずストーリー形式になっていることで、具体的なシーンや人物像が想像しやすくなっている。それから、たしかに私も「16パーソナリティー分析」などをやったことはあるが、性格そのものは自分に当てはまっているように思えるものの、どうすればそれがビジネスや生活の場面で活かせるかに関してのアドバイスに関しては弱い気がした。

 

そしてこの場を借りて、私が最初に述べた、「自分を天才と思い込んでいる、意識高い系」という言葉は撤回したいと思う。というのも、作者の結論では、「天才は誰の中にでもいる」とのことだからである。たしかに「人よりずば抜けて秀でた天才」というのは、あまり見かけないが、「天才の要素」なら、どの人にも多少なりともあると思う。すなわち、私もあなたもある意味「天才」なのである。「自分の中の天才」を殺さないようにするべき、という意見には、目からうろこだった。

 

そして日本の社会では、天才が育ちにくいという意見には、真に同意する。この社会では、天才だけに限らず、平均的な才能が求められ、多数決によって決められた、右へ倣えという価値観がもてはやされ、突出した個性や才能は潰されてしまいがちだ。

しかしこの本の読者がそれほど多いということは、それだけこの本の趣旨に共感している人も多いと言えると思う。そんな人たちの中から、イノベーションや変革が生まれ、よりよい社会になっていったらいいなと思った。

 

そして自称「病める天才」で孤独癖のある私も、才能の開花を支援してくれる、「共感の神」を本気で探そうと思ったのであった。

 

Written by ユカ@コーヒー

 

 

映画「博士と彼女のセオリー」を見た

博士と彼女のセオリー

博士と彼女のセオリー

 

概要

博士と彼女のセオリー(The theory of everything)は、2014年のイギリス映画で、理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士と、元妻ジェーン・ホーキングの結婚生活を主に描いた物語。主人公、ホーキング博士役のエディ・レッドメインは、この作品でアカデミー賞の主演男優賞を受賞した。

 あらすじ

 主人公のティーブンとのちに妻になるジェーンが出会うところから物語は始まる。二人は出会ってすぐに恋に落ちる。大学では、すでに天才的な才能を発揮していたスティーブンだったが、ある日突然構内で転倒してしまう。搬送先の病院で、スティーブンはALS筋萎縮性側索硬化症)と医師に診断され、余命2年と宣告される。悲壮感に暮れ、投げやりな態度を取り、ジェーンと距離を置こうとするスティーブンだったが、ジェーンはスティーブンのもとを離れようとしない。親からも反対されるが、ジェーンに説得される形で、二人は結婚する。

 二人の間に男の子が生まれる。そしてスティーブンの論文が教授たちから認められる。しかし身体は動かなくなってしまい、車いすを使うことになる。そんな折、宇宙に関する発表をするスティーブン。一部を除いて、観衆たちが絶賛してくれる。

数年後、二人目の子供に恵まれる。順調に結婚生活を送っているようだったが、やはり彼の病気が重篤になっていくにつれ、誰かの手助けが必要だと考えるようになる。教会に聖歌隊のレッスンを見学に行ったジェーンは、そこでピアノ講師をしていたジョナサンと知り合う。最近妻を亡くしたというジョナサンは、ホーキング家に手伝いに来てくれるようになる。ジョナサンは外見も性格も面倒見もよく、子供たちからも慕われ、家族にとってなくてはならない存在となっていく。

 しかし三人目の子供が生まれると、ジェーンはジョナサンとの仲を世間に噂されるようになる。ジェーンはそれを必死で否定し、ジョナサンとの関係も清算しようとするが、二人は互いに惹かれ合っていることに気付く。

 フランスのボルドーのオペラに誘われたスティーブンは、ジョナサンとジェーンに子供の世話を頼む。しかしオペラの鑑賞中、スティーブンの容体が悪化し、病院に運ばれる。スティーブンは喉の手術が必要となり、声が出せない身体になってしまう。そしてそれ以来、看護師エレインの指導の下、スペルボードを利用し、会話をすることになる。のちに指の微妙な動きで声を出せる音声機を使用することになる。

 そののち、スティーブンの初の著書がベストセラーになり、本の授賞式にはエレインを連れていくと言う。ジェーンとスティーブンは、そのことがきっかけで離婚することになる。授賞式ではユーモアを交えながら、客席を沸かすスティーブン。そしてジョナサンと再開したジェーンは、彼との再婚を決める。

 総評

「どんなに不幸な人生でも、やれることはあるし成功できる」

余命二年と言われ、人生を悲観していたホーキング博士。たしかに容体は年々悪化していくのだが、それ以上に自分の研究に対する情熱が強いと感じた。変化する容体に影響されることなく、次々と新しい成果を上げていくホーキング博士の生き方からは、たとえ人生に制約があっても、それでも一人一人にできることがあるし、それをやることで自分の人生を輝かせることができるというメッセージが伝わってきた。

実際に彼のアメリカでの授賞式で、博士は「人生哲学は何か?」という質問に、「(前略)人間の努力にも境界はありません。(中略)いかに不幸な人生でも、何かやれることはあり、成功できるのです」と答えていた。彼は実際まさにそれを体現している。その分説得力があると思うし、またその言葉には励まされた。

 人生におけるユーモアとは

また博士はケンブリッジで観光客に、『本物のホーキング博士ですか?』と聞かれたとき、『本物はもっとハンサムです』と答えました」と回答し、笑いをとっている。そこでハッと気づいたのは、人生におけるユーモアの必要性だ。どんなに不幸な人生でも、ユーモアがあれば、不幸をオブラートに包むことができる。ユーモアは暗闇を照らす光になる。だからどれだけ人生で色々なものを失ったとしても、最後にユーモアだけはなくしてはならないのだ。そんな博士の知性やユーモアであふれた人間性に、ジェーンやエレインをはじめとして、多くの人が魅了されるのも、うなずける話だと思った。

妻の献身

またジェーンの妻としての献身にも心を打たれた。ジェーンがいなければ、あれほど目覚ましいホーキング博士の活躍もなかったのではないか。実際、気管切開か死かを選ぶ場面で、「彼は生きなければならない」と強く主張する姿には心を動かされた。そして最後に博士とジェーンが別れを決意する場面で、ジェーンの「I have loved you」というセリフがあった。それが「I loved you」ではなくて、期間を表す「have」が使われていたところが印象的だった。彼女はただ単に彼を愛し「た」のでなく、ずっと長い間、彼を愛し「続けてきた」のだった。その場面には思わず、「ジェーンお疲れ様」と言いたくなった。

最後に

最後にホーキング博士を演じた俳優、エディ・レッドメインの素晴らしい演技に一票を投じて終わりにしたい。まさに彼はホーキング博士の生き写しではないかと思うくらい、最初から最後までホーキング博士っぽかった。そしてホーキング博士のチャーミングで親しみやすい魅力がよく伝わってくる。

 

Written by ユカ@コーヒー